女教師は男子生徒の永遠のあこがれ!? ~エロも教えちゃう令和の女教師像~

女教師は男子生徒の永遠のあこがれ
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〝女教師〟とはどんな存在か ~手始めに昭和の女教師を考えてみる

〝女教師〟という単語を見て下半身がビクっとするのは男性ならば自然なこと

前回(第九回 「奈落の女教師 イヴ」 AVの枠を超えた女優・イヴの演技力と物語の深みを味わう)は、1980年代〝ノーパン喫茶の女王〟として知られたイヴが女教師に扮した作品を紹介した。

そして今回は女教師というテーマで語っていきたいと思う。

まず〝女教師〟とはいったい何か? 女の先生なのはいうまでもないが、ではどんな存在だろう? 最初すこし小難しい話から入るが、女教師の役割について、ずっと議論がなされてきたようだ。

高度成長期から1970年代あたりまで、女教師は教育現場で〝母性〟を求められたという。具体的にいうと、女教師は、家庭で母親がやる仕事を学校現場でやるようになる。

一方、父親が家庭でするような仕事は学校ではあまりないし、男性教師は学校で〝父性〟を求められてはいない。

結果、どういうことになるかというと、女教師はお茶くみから始まり、先生たちの机の清掃など、本来の教育業務以外の仕事をすることになる。男性教師に頼ったり、発言を控えたりという特性も見られたらしい。昭和の頃の家庭での母親が、そのまま学校現場にも反映されているといえるだろう。

たとえば家庭で、庭の雑草を刈ったり、壊れた電球を取りかえたりするのは、母親ではなくて父親の役割だと思うかたが多いのではないだろうか。学校現場だと、用務員さんという存在がいて、それらの雑務を請け負っている。つまり男性教師は、家庭で期待されているようなお父さん的な仕事を教育業務ですることなく、本来の仕事に取り組むことができるというわけだ。

そのような背景があったため、女性教師の役割について、女教師の側から批判的な意見も出た。男性教師と同等に扱えということだ。

エロの現場では、女教師は強力なコンテンツのひとつといえるだろう

昭和のころは、父親が外で働き、母親は専業主婦という家庭が一般的だった。子供と向き合う時間が多い母親が、子供の教育を任されることも一般的だっただろう。

女教師が男性教師と同等な扱いを希望するという話をしたが、実際のところ各家庭の母親は、自分の子供たちが小学校高学年以上になると担任にはかならず男性教師を希望する。

とくに女教師が母親よりも若い先生だった場合、相当な反発があるのは想像に難くない。つまり、女教師は、男性教師の補助的な役割と思われているためか、母親からは〝頼りない〟と映っているということだろう。

以上のことは、義務教育での話になるのだが、高校よりも上の学校となると、そもそも女の先生の数の割合が少なくなってくる。そのため、上記のような〝女教師は頼りない〟という問題はそもそもあまり見られない。

ここまで読んでいただいたかたなら、女教師のそんなイメージに違和感があるだろう。

われわれエロの現場でイメージされる女教師と、少なくとも昭和のころ義務教育の現場にいた女教師は決定的に違っているからだ。

エロの現場でイメージされる女教師とは、「気が強い」「高飛車」「生意気」という属性をまとっているように思う。

一方、実際の教育現場の女教師は〝頼りない〟イメージ。

エロは妄想が基本だから、現実と違うのは当たり前だという意見もあろう。

しかし、エロ妄想が現実から派生したと考えると、「気が強い」「高飛車」「生意気」という属性は、どこから出てきたのかという話になってくる。

実際の女教師は〝性〟を押し殺した中世的な服装のことが少なくない

ピンク映画で描かれた女教師像に迫る ~にっかつロマンポルノを題材に

女教師がエロいというイメージはどこから来たのだろうか

みなさんご存知だとは思うが、「にっかつロマンポルノ」というピンク映画がある。

数多くの女優を輩出し、1970年代から1980年代にかけて青少年の心と下半身をとらえた一大メディアだ。

〝女教師〟がロマンポルノのタイトルに登場したのはいつなのかをすこし調べてみた。

女教師に対するエロイメージがいったいどこから来たのかを知りたいと思ったからだ。1971年からスタートしたロマンポルノは、創成期のエロメディアを知るうえで、役に立つだろうとも思った。

すると、〝女教師〟が最初に登場するのは1973年の「女教師 私生活」だということがわかった。ちなみに、〝女高生〟は1971年のロマンポルノのスタート時の年からもうすでに登場しているし、また1972年には〝女子大生〟が登場している。

そして1973年の同じ年に「女教師 甘い生活」。1975年「女教師 少年狩り」、1976年「女教師 童貞狩り」、1977年「女教師」、1978年「女教師 秘密」と続いている。

私はそれらの映像作品を見たわけではないのだが、作品について語られているふたつの書籍、「官能のプログラム・ピクチュア」(フィルムアート社 1983年)「蘇る!日活ロマンポルノ」(徳間書店 2016年)にあった作品紹介を参考にしながら、女教師の扱いについて思いをめぐらせてみた。

「官能のプログラム・ピクチュア」(フィルムアート社 1983年)

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「蘇る!日活ロマンポルノ」(徳間書店 2016年)

「女教師 私生活」では女教師は教え子と同棲しているし、「女教師 甘い生活」では万引きを生徒に目撃されている。基本的には品行方正で高学歴の女性をイメージしていた私は驚いてしまう。

少なくともロマンポルノでは、最初に女教師が題材に選ばれた段階から、問題行動のある女として描かれていたからだ。ちなみに〝普通の女教師〟が生徒に犯されるという展開は、上記作品のなかでは「女教師 秘密」のみだ。

ところで、エロメディアでの女教師の描かれ方は、大きくわけてふたつあると思っている。

ひとつは、聖職者と呼ばれる女教師だけに、普段から自分を律する振舞いをしており、まわりもそれを求めていると自分でも考えている。しかし本来の自分とは違う顔を表に出しているためストレスが蓄積。やがてフタをしていた肉欲をふくめた欲望をおさえきれなくなり暴走を始めるという描かれ方。

ふたつめは、男側からの視線になる。女教師を力づくで犯しチンポで支配。その結果、立場的に上に立っている女教師の権威を失墜させ、品行方正で聖職者、そして高学歴であってもほかの女となんら変わらないということを見る者に抱かせる描かれ方だ。

ふたつめの描かれ方の場合、女教師は無理矢理快感に目覚めさせられ肉欲のトリコになっていくというのが王道だろう。

ロマンポルノの初期の女教師モノは、ひとつめの描かれ方といえなくもない。また、「女教師 秘密」はふたつめの描かれ方だろう。

現在、どちらに比重が置かれたエロ作品が目立つかといえば、ふたつめの描かれ方ではないだろうか。だからこそ、「女教師 私生活」で、女教師が教え子と同棲しているという設定に私は驚いたわけだ。

このふたつの描かれ方には、きちんとした理由があると私は思っている。

AVを見るのは大部分が男性だ。男性に対して、女教師の心の問題に踏み込む、ひとつめの描かれ方を提示したとして、物語としては深みがあり面白いかもしれないが、男性たちの下半身に響くかどうかは疑問だ。

女教師の気持ちに踏み込むということは、それだけ見る者に感情移入をうながすということにほかならない。しかし一般的に男性はヒロインに感情移入し過ぎると、逆にチンポがボッキしなくなってしまう。

女教師は〝エロ〟を指導する存在であって欲しい

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生徒として接するとき、女教師はだいたい年上のお姉さん的存在

小難しい話を長々と書いてきたが、結局私が何をいいたいのかというと、女教師とはこういう存在だという既定の雛形があったほうがいいのではないかということだ。揺るぎないエロアイテムとしての女教師とでもいえばいいだろうか。

もっというと、女教師のエロ現場での存在は、ひたすら洋式美に徹して欲しい。生徒思いで真面目な性格、それプラス美人でスタイル良しならあとの属性はほぼ必要がないと思う。ひとつとても重要な役割があるが、それは記事の後半で語りたい。

還暦近くになっても、家族に隠れてこっそりオナニーしているような私は、当然女性に対しては基本的に卑屈で、たとえば女教師に代表されるような、高学歴女子から正論をぶつけられるとチンポが萎んでしまう。

なんでそんな精神状態になるのか。繰り返しになるが女教師の重要な役割をふくめて、後半に語りたい。

それはさておき、実際のところ、自身が父兄や同僚でないかぎり、つまり生徒として接する場合、女教師は年上だ。エロ現場における年上のお姉さんの役割はエッチ指南、最終的には筆おろしとだいたい決まっている。

女教師を集団で犯すワルの男子生徒たちが描かれたエロメディアはめずらしくないし、それに興奮するユーザーたちも少なくないと思う。しかし、女教師が主人公である以上、物語は主人公を追いかけて展開されるので、犯された女教師の内面を描かざるを得ない。

女教師が犯されることで興奮するユーザーたちを満足させ続けるためには、女教師を犯す男たちを主人公にし、物語も彼らを軸に展開させなくてはならない。また、彼らはたまたま近くにいた魅力的な女教師を犯しただけのことで、女教師という属性ありきのレイプではないだろう。

結果どうなるかというと、女教師を犯し続けなくては〝女教師枠〟から外れてしまう。ひとりの女教師を犯し続ける展開もあるだろうが、そうなると前述したように、女教師の内面に踏み込む必要が出てくる。

いずれにしても、女教師が生徒たちに犯される展開はインパクトは大きいものの、その後のエロ展開が盛り上がりにくい。

つまり、エロメディアでは、女教師は生徒にエロを教えることに特化した存在と思い切って規定してはどうかというのが私の主張だ。

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メガネは知性を強調するアイテム

同時にここでは、女教師の服装について考えてみたい。じつは女教師ほど、現実の服装とエロ現場での服装にギャップがある職業はないのではないかと思っている。

看護師やCAだと、制服の基本形はある程度決まっているので、現実とエロ現場にそこまでの乖離は生じない。しかし、女教師の場合、現実にはグレーや紺の地味な色をしたスーツだろう。そしてパンツルックかヒザ下までの長いスカートが主流だ。肌の露出も抑えられている。

男性が性欲を刺激される服装ではない。女教師の服装をエロ現場に適したものに変えるとなると、パンツルックはスカート。それもタイトなミニスカートへ。上半身はブレザーではなく、胸がはだけてバストの谷間が見える白のブラウスになるだろう。

現実を残しつつ変更したとしても、それなりに刺激的な服装に変えるのは可能だが、その服装の女性が教室に立っていないと、女教師とはわからないかもしれない。

そのため、メガネや指示棒というアイテムが積極的に使われることになる。逆にいうと、それらのアイテムがなければ女教師には見えないからだ。

さらにいうと、前提となっている女教師の服装は、教育実習生の定番の服装であり、リクルートスーツと同じともいえる。

実際の教育現場で働く女教師の服装はもっと多様だ。だから、服装のイメージが想像しにくい。エロメディアに登場するときにだけ、先の服装にイメージが固定されているのはかなり興味深い問題だが、ここではそこに深くは入り込まない。

さて、私の服装についての考えは、女教師とはこういう存在だと規定すればいいといった流れで、服装も規定すればいいと思っている。

上半身は白いブラウスで下半身はタイトなミニスカ。黒いストッキングで黒のヒールというのが、エロ現場での定番となっているが、私の理想としては、知性よりも癒しと愛嬌を感じさせるパステル調の服装のほうが理想だ。具体的なキャラが頭のなかにあったわけではないが、「まいっちんぐマチコ先生」みたいな感じの先生をイメージするとわかりやすいかもしれない。

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実際の教育現場では女教師の服装はさまざま

理想的な女教師は生徒の突然のボッキも温かい気持ちで対応

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ここからは私の妄想を入口に、とくにエロ方面での理想的な女教師のあり方、つまり先に述べた重要な役割をふくめて書いていきたい。

おそらくほとんどの男性は、突然のボッキに見舞われた経験があるのではないだろうか。エロいものを見たわけではないにもかかわらず、チンポがボッキしてしまうことは思っていた以上の頻度で起こる。

何の脈略もないボッキは多くの男性を困惑させるが、このボッキを利用して射精したらどんな気持ちが良いだろうと思ってしまうことも事実で、その意味では朝勃ちに似ているかもしれない。

授業中に突然のボッキに襲われた学生や、元学生の方々も多いだろう。

そんなときに相談に乗って欲しいのが女教師だ。というか女教師こそが、教室内での突然のボッキに対応できる唯一無二の存在といってもいいかもしれない。

「先生! 理由はわかりませんがボッキしました」生徒からの真剣な報告に、女教師はきっと真面目に対応してくれるだろう。

これが一般の会社ならセクハラ案件で訴えられても仕方がないが、なにせ教育現場でのこと。心身とくに精神が未熟な男子学生は加害の気持ちなど微塵もなく、自身の困惑をどうにかして欲しいとすら思っている。

「あらあら、それは大変! 先生といっしょに二人三脚で解決していこうね♪」と優しい眼差しを向けると同時に、股間に手を添えてくれるかもしれない。

もしもこれが男性教師なら地獄だが、それはさておき、男子は青少年のときに年上のお姉さん、ここでは女教師の〝指導〟を受けたかどうかでその後の人生が決まってくるような気がしている。

もしも〝指導〟を受けた経験があるなら、はやい段階で性欲をコントロール下に置くことができるため、人生の節目節目で性欲に惑わされず最適な選択が可能になるに違いない。

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いつもにこにこ愛嬌たっぷりな癒し系女教師が男子生徒の望み!?

私のように〝指導〟未経験だと、どこまでいっても性欲に悩まされ続けたあげく、素人童貞をこじらせてしまい、いまだにスケベなことばかり考えてはエロ妄想を繰り返すことになりかねない。要は、性欲の沼から抜け出せていない。

つまり、青少年男子が将来、性欲をこじらせてしまわないようにするのが女教師のもっとも大切な仕事のひとつではないかと私は思っている。

最後は私の妄想が暴走したあげく、ややこじつけ的な話になってしまったが、年上女性の〝性的指南〟こそがエロ側面からみたときの女教師の本質ではないか。

教師は、高学歴で聖職であるという前提のもと、性欲に溺れる姿とのギャップをことさらに強調する描き方もあるだろう。しかし、それは、教師本来の〝教える〟という行為を軽視してはいないだろうか。ギャップエロならば、女教師でなくてもいろいろな職業で描くことができる。

思春期や青少年のころに経験したことは人生を通じて残る。血肉化して残るといっても大げさではない。学生時代に良い先生と出会ったことでその後の人生が実り豊かになる経験をしたかたも少なくないだろう。

また、妄想の世界に入るが、あのとき先生に教えてもらった記憶がチンポに残っているからこそ、ここというときに踏ん張れるのではないだろうか。

※参考書籍
「官能のプログラム・ピクチュア」(フィルムアート社 1983年)
「蘇る!日活ロマンポルノ」(徳間書店 2016年)

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