注目を浴びてから13年後イヴは女教師になった
今回は、イヴが女教師に扮した作品「奈落の女教師 イヴ」について語っていきたい。1997年の作品だ。「ノーパン喫茶の女王」としてイヴが注目されたのが1984年。つまり、映像デビューから13年後の作品ということになる。
その13年間イヴはずっと女優として活動していた。そのため、1984年と1997年を取り出して比較してもあまり意味はないと思うが、1984年、デビュー当時のイヴは少しウェーブがかかったセミロングのヘアスタイルなのに対し、1997年「奈落の女教師」のイヴは、ストレートのロングヘアだ。
年齢を重ねているので当然だろうと思うが、1997年のイヴは落ち着いた雰囲気で、とてもイイ女に映る。
さて、「奈落の女教師」だが、おそらく発売当時、いろいろなレビューがなされたと思う。カラミは何回とか発射は何回とか、はたまたイヴの身体のどこにザーメンが発射されたとかいうことに重きを置いた内容だっただろう。
AVなのでカラミ重視で語られるのはもちろんだが、今回それをなぞったところで目新しさはないし面白くもない。
そのため、イヴが扮した女教師の内面を掘り下げる視点で語りたいと思う。なぜなら、「奈落の女教師」の物語自体が女教師の内面を軸に構成されているからだ。
ところで、女優として活動を続けるイヴは、「ノーパン喫茶の女王」という称号を捨てようとしていたように思う。おそらくは、「ノーパン喫茶の女王」と呼ばれた過去を捨て、あたらしい人生、つまり女優として歩んでいこうとしていたのだろう。
「奈落の女教師」の女教師も過去の自分を捨て去り、あたらしい人生を始めたいと思っていた。そのため、その姿が実際のイヴと重なって見える。
「奈落の女教師」の内容を簡単に説明すると、イヴ扮する女教師は、とある学校で美術の教師として教壇に立っている。もともと内省的な性格なのだろう、淡々と授業をこなし、自宅に帰ってからは絵を描くことに没頭している。

勤務を終えたあとの帰宅時、彼女に好意を寄せる同僚の速水先生(速水健二)の誘いを断り、自宅に急ぎ、そして絵を描く。そんな日常が繰り返されていく。

作品中で何度も、「私はひとりが好き」「私に幸せを求める資格はない」女教師のモノローグが繰り返される。
女教師は以前勤務していた学校で起きたある事件をずっと引きずっており、ゆえに自分は幸せになる資格はないと思っていた。

女教師の人生を狂わせたある事件
以前の学校で何があったのか。
美術室で絵を描いていた女教師は、彼女に一方的に好意を寄せる生徒・大島(大島丈)に強引に迫られてしまう。しかし生徒の大島は、女教師と肉体関係を持つための計画的な肉欲があったわけではなく、彼女への想いが大き過ぎて処理に困っただけのように見える。

そのため未遂に終わるが、女教師は大島の行為を結果的に利用して肉体関係を結んでしまう。以後、女教師が主導するかたちで何度も美術室での秘密の交わりが繰り返されることになる。

生徒の大島は、戸惑いながらも大好きな女教師の誘いを断ることができない。女教師と生徒との禁断の密会だ。
そんなある日、その密会が教師の山本先生(山本竜二)に見つかってしまう。山本は、悪いのは生徒の大島と決めつけ大島を殴りつける。
しかし、それは正義の鉄拳ではなく、機会があれば自分が女教師と関係を持ちたいという邪な思いが根底にあった。結果、山本は暴力教師というレッテルを貼られ学校を辞めざるを得なくなる。
一方、女教師も学校にそのままとどまることはできず辞めてしまう。そのとき、描いていた絵は次の学校に移ったあともずっと完成していない。
ところで、女教師は、エゴン・シーレというオーストリアの画家に心酔していた。美術を志したきっかけだったのかもしれない。
シーレは天才と呼ばれた画家とのことで、魅力的に映っていたのだろう、絵を描くのを毎日見に来るひとりの美少女がいたという。しかし彼は、美少女には目もくれず絵を描き続ける。
一方、イヴ扮する女教師は、生徒の大島と何度も何度も関係を結んでしまう。「私はシーレのようにはなれなかった」女教師は絶望しながらも絵を描くのをやめられない。

「この絵が完成したら、違う人生を歩むことができる」と思っているからだ。絵の完成は、画家のシーレに心酔していた過去の自分との決別を意味し、同時に過去を引きずる自分から脱皮して新しい自分になれると本気で信じていた。しかし、新しい学校に移っても絵は完成しない。


そんなとき、元教師の山本が生徒の大島を連れて、女教師の前に現れる。例の事件から6年が経過していた。
山本は街の金融屋に転職しており見るからにカタギではない雰囲気。そこに金を借りに来た大島と再会したという。ふたりは女教師以上に人生を狂わされていたようだ。

女教師は無理矢理車に乗せられて、向かった先は彼女の自宅マンション。そしてベッドに押し倒される。強引な3Pの始まりだ。

かつて生徒だった大島は、思い込みが激しく一途な青年ではなくなっており、女教師をまるでゲームのように責める。結果、女教師はふたりにハメられた挙句、最後は強制的にオナニーまでやらされる。

事後、描いていた途中の絵を大島に罵られながら破られてしまう。
そしてまた繰り返される日常。勤務後、女教師はまた速水に誘われるも、無言で振り切り自宅に帰り、また一から絵を描く。
「私はひとりが好き。私に幸せを求める資格はない」と自分に言い聞かせつつ。
少し長くなったが、以上が「奈落の女教師」のおおまかなストーリーだ。物語全体を暗い雰囲気が覆っているし、ヒロインの女教師も暗く描かれている。
その一方で、カラミ自体はとてもエロく、「ノーパン喫茶の女王」と呼ばれた頃よりも年齢を重ねてイイ女度が増したイヴの、無理矢理犯されながらも感じてしまう様子に惹き込まれると同時に、スタイル抜群の肢体と美乳にも魅せられてしまう。
女優と男優の演技のアンバランス問題
さて、話はいったん「奈落の女教師」から少し外れるが、とくにストーリーのあるAVを見ていて起きる現象のひとつに、女優と男優の演技バランスの問題があると思っている。
具体的に説明すると、当時、といっても1980年代や1990年代が中心だが、女優の数にくらべて男優の数が圧倒的に少なかった。理由はいくつかあると思う。最近は違うかもしれないが、女優の新陳代謝が今よりもはるかにはやく、デビューして数年活躍すればもうベテランだ。エロ界隈以外、一般のアイドルやタレントも然りで、ユーザーが常に新しい女の子を求めていることが背景にあるのは間違いない。
その結果、なにが起きるかというと、相対的に数がとても少ない男優は場数を踏む機会が数多くあるのにくらべて、女優はほぼない。男優は現場経験を重ねることで、演技が上達する一方、女優はそこまでの上達はない。
ストーリーがきちんとしているAVの場合、男優の演技は自然に見える一方で、女優の演技に違和感を覚えてしまうことが何度もあったのは、私だけではないはずだ。
このとき私はいつも、ある種の既視感を覚える。既視感の正体は、とくに1980年代が顕著だが、人気のあるアイドル歌手を主役に抜擢した、またはオーディションでヒロインを決定する、いわゆるアイドル映画だ。
オーディションで選ばれたヒロインや、アイドル歌手たちは演技の素人。人気アイドルならスケジュールが取れないという理由もあり、クランクインするまでに演技を学ぶ時間があまりない。結果、見てられない演技を披露してしまうことがすくなからずある。
そのことを充分にわかっている監督や制作側は、脇役をベテラン俳優ばかりでかためることもめずらしくない。ヒロインの未熟さをまわりでカバーすることで、映画自体のクオリティを一定以上に保つつもりが、皮肉にもつたない演技を際立たせてしまう結果になることのほうが多い印象がある。
つまり、ある種のAVを見たとき、そんなアイドル映画を見たときのような気持ちになったわけだ。
アイドル映画のことはさておき、きちんとした物語のあるAVにも、もちろん例外があり、男優に引けをとらない演技を見せるAV女優もいる。しかし、数は少ない。理由は前述のように女優本人に原因があるのではなく、AVの構造的な問題のような気がしてならない。
他方、1990年代の私はレンタルビデオ屋を利用してよくAVを見ていた。毎回違う女優の作品をレンタルするのだが、どういうわけか、いつも特定の男優ばかりが出演していて、もしかして私は、出演女優ではなく出演男優で作品を選んだのではないかと思うこともしばしばだった。
このエピソードも、女優と男優の数の極端なアンバランスを象徴する出来事だったと思う。
ところで現在は、女優自体の活動期間が比較的長期化したことと、物語重視のAVが、ある程度場数を踏んでいる熟女女優が出演の、いわゆる熟女モノに偏っていることで、演技のアンバランス問題はある程度解消されたような気がしている。
物語の中の女教師と「ノーパン喫茶の女王」から脱皮したイヴ
ここでふたたび「奈落の女教師」の話に戻るが、速水健二、山本竜二、大島丈と出演男優の3人はいずれもベテラン男優だ。しかし、前述のように、イヴの演技に男優たちとのアンバランスを感じることはない。つまり安心して見ていられる。
安心して見ていられるということは、よけいなことを気にすることなく物語に没頭できるということ。とくに「奈落の女教師」のように複雑なテーマの作品にはユーザーが物語に入り込めることがとても重要だ。
女優として活動を続けてきたイヴだからこそ演じられたということだろう。

さて、ここでまたイヴではなく、イヴが演じた女教師の話に戻るが、女教師が求めていたものは結局なんだったのだろうか。生徒の大島の純粋な衝動は受け入れたが、速水の度重なる誘いは断り続けている。
「幸せになる資格がない」という理由だけではないように思う。女教師は、純粋無垢な性衝動をぶつけられ愛されることをずっと欲していたのではないだろうか。裏腹に、計算ずくな肉欲には猛反発するということだろう。
彼女が芸術家肌の美術教師で、山本や速水がふたりとも数学教師というのがとても重要なポイントのように思えてならない。
純粋な性衝動を欲していた彼女は、大島にそれを向けられて受け入れたが、6年後の大島はすっかり変わってしまい、打算的な肉欲をぶつけてくるほかの男たちと大差ない存在に成り果てていた。

このとき、女教師には、大島が山本と同じ種類の男に映っていた。
しかし最後に「もう会うこともないだろう」と言って女教師の部屋を出ていく大島の姿と、「また来ますよ」と去っていく山本の姿は対照的に映る。
もしかしたら大島は、女教師に対する純粋な想いや性衝動をまだどこかに残していたのだろうか。でなければ、山本と同じく「また来ます」と言い残していったはずだ。しかし、純粋な想いがあるとしても、それはふたたび女教師に向けられることはないだろう。
かくして女教師はまた絵を描き続ける。
いつまで経っても完成しない絵。もしも絵が完成してしまうと、「違う人生を歩み出せる」一方で、打算的な肉欲を求めるありきたりの女になってしまう。女教師はそう思っていたのではないか。
永遠に完成しない絵を描きながら、純粋な性衝動をぶつけてくる相手を待ち続ける女教師。ここまで奥行きを感じさせるヒロインをイヴが演じきったことに私は感動している。
「奈落の女教師」を演じたことで、イヴは「ノーパン喫茶の女王」から脱却し女優としての存在感を見せた。
一方で、物語のなかの女教師は、同じ場所にずっととどまったまま。
対照的な〝ふたり〟に思いをめぐらせながら「奈落の女教師」を鑑賞するのも有意義だろうと思っている。