オナニーについて真剣に考えてみた

今回はオナニーについて真剣に考えていきたい。
中高年の方々のなかには、性欲減退していてオナニーなんてとんとしていないという意見が少なくないかもしれない。
しかし、オナニーのことを深く掘り下げて考えることで、性欲減退を克服することが可能になり、または、ボッキ不全にも対処できるかもしれないと私は考えている。
では、あらためてオナニーとはなんなのか。
知っているようで実はあまりよくわかっていないという方々が大半だと思うのだが、セックスと対比して考えてみるとよくわかる。
具体的にみていこう。
オナニーはひとりでできるのに対して、セックスはひとりではできず相手が必要だ。マニアックな場合を除いて、相手はひとりだが、それはさておき、ほとんどの男性は、セックスよりもオナニーを先に経験する。
もしかしたら、オナニーよりもセックスを早く経験したという男性もいるかもしれない。または、セックスとオナニーが同時という場合もあるかもしれない。しかし、それらは、相当に特殊なケースだろう。
オナニーよりもセックスを先に経験するのが羨ましいということではなく、オナニーとセックスの正しい順番を踏まえておかないと、後の人生に多大な影響を与えるので注意が必要ということをいいたかっただけだ。
オナニーよりもセックスを先に経験した少数派の方々は、その後に充実した性ライフを送ることができないと、私は断言してしまう。

具体的な場面を考えるとわかりやすい。オナニーを経験していないということは、セックスに対する準備ができていないということだ。身体の準備ができていないのもそうだが、精神的な準備の不足のほうが大きいかもしれない。
性に対する精神的な準備が整っていないにもかかわらず、セックスしてしまうというのはいったいどういう状況なのか。
そのつもりがないのに、優しくてエロいお姉さんにチンチンをいじられてしまった……のならまだいいと思う男性が大勢だとしても、おばさんにチンチンを咥えられてしまったとかももちろん考えられる。
私はオトコなので、相手がキレイなお姉さんなら羨ましいとたしかに思うが、男女を逆転させて考えてみれば、事案になってしまう。つまり、経験したくないということになるのではないだろうか。
一方、多くの普通の男性たちは、オナニー→セックスという過程を経てはじめて心身が成熟する。
さらにいうと、すべての男性が、オナニーだけで生涯を終えたいとは思ってないはずだ。オナニーに興じているならなおさらだろう。
つまりオナニーの先には、セックスがある。とはいっても、オナニーを2、3回したくらいで、セックスに向かうのは無謀だ。
充実したオナニーを経験せずに、セックスに挑むのは、たとえるなら、普段まったく運動しない人が、いきなりフルマラソンを走る行為に等しい。
オナニーをセックスの前段階と位置づけることで、セックスへの期待値が高まると同時に、オナニーを疎かにしてはいけないという考えも生まれるに違いない。
剣豪・宮本武蔵からオナニーの心構えを知る

充実したオナニーが極めて大切ということを確認したわけだが、一介の底辺店主である私がそう主張したところで、あまり説得力がないだろう。
そのため、ここでは誰もが知る著名人たちの話を引き合いに出しながら、オナニーについてより深く考えてみたいと思う。
まずひとりめは、歴史上の偉人といってもいい、剣豪・宮本武蔵だ。
宮本武蔵とオナニー。まったく関連がないと思われるかもしれない。しかし私がここで強調したいのは、オナニーに対する心構えであり、オナニーのテクニック的なことではない。
オナニーをするためには、最初に性衝動があるのはもちろんなのだが、どのような心の有り様で実行するかによって、充実度が増し、その結果、中高年が悩むED問題や、セックスレス問題などにも対処できると考えている。

というわけで、剣豪 ・ 宮本武蔵だが、農村出身で、今でいうところの 〝やんちゃ〟 な少年だった。
時は戦国時代。悪い仲間たちとつるみ、生きていくために盗みや略奪をして暮らしていたという。当然、剣の道を志そうとしていないし、剣の技術的な基礎もない。
しかし、後々武者修行を重ね、剣の腕を磨き日本一の剣士となる。そのことを決定付けた、佐々木小次郎との巌流島での決闘はよく知られている。
実のところ、宮本武蔵も佐々木小次郎も、本当のところどのような人物だったのか明らかになっていないのだが、巌流島の決闘がおこなわれた当時、宮本武蔵は吉岡一門を下し全国的に名を馳せ、また、佐々木小次郎は小倉藩の剣術指南だったという。
つまりふたりとも剣術の腕前は相当なものだった。
宮本武蔵の話に戻るが、農村出身の無法者だった彼が、どういうきっかけで剣の道を歩むことになったのか。
よくいわれているのが、沢庵和尚との出会いだ。
最近の研究では、宮本武蔵と沢庵和尚はそもそも出会っていないという説も浮上してきているようだが、広く知れ渡っている話は、宮本武蔵が剣の道を目指す初期段階で、沢庵和尚によって地下壕のような場所に幽閉されたことではないだろうか。
どうしてそんなことになったのかというと、宮本武蔵の素質を見抜いていた沢庵和尚が、基礎的なことを身に付けさせるためにあえて幽閉したとされている。
基礎的なこととは、剣の技術的なこと以前の問題、つまり心構えだ。
暴れん坊だった宮本武蔵は、太陽の光がまったく届かない場所に閉じ込められることで己とはじめて向き合い、その場所で文字を覚え、剣に関するさまざまな知識を学ぶことになる。
重要なのは、本格的な武者修行に入るまえの段階で、剣の道への心構えができていたこと。
やや強引につなげてしまうが、このことはセックスのまえに、きちんとしたオナニーが完成していたことに通じる。
ここで、私が強調したいことは、性欲減退やボッキ不全など、セックスにまつわる根本的な問題は、基本に立ち返ることで克服できるということだ。
基本とはもちろんオナニーのこと。初心を思い出しつつオナニーに耽ることで、性欲が減退していなかったころの自分に、誰でもが再び出会えると確信している。
三冠王・落合博満氏から学ぶ理想的なオナニー

前項の私の自論に説得力を持たせる意味で、ふたりめの有名人を引き合いに出す。
それが三冠王・落合博満氏だ。現役時代の成績はもちろんのこと、監督に就任してからの成績も他の追随を許さないレベルなのは、よく知られたところだろう。
昭和、平成を代表する野球人として、この先もずっと語り継がれるに違いない。私は、彼の現役時代のプレイをリアルタイムで見られたことを幸せだと思っている。
そんな落合氏だが、バッティングの天才と呼ばれた彼でも、現役時代に何度もスランプがあった。スランプに陥ったとき、普通の選手ならば、ひたすらボールを打ったり、気分を変える意味で野球とは別のことに集中したりすることもあるようだ。
しかし、落合氏の場合は違う。スランプ時の行動は一貫していて、それが暗闇での素振りだ。
落合氏は、スランプに陥った状態を、基本となる理想的なバッティングフォームが出来ていないと考え、理想的なフォームを身体が思い出すまで素振りを繰り返したとのこと。
暗闇だったのは神経を集中させるためといわれている。
つまり、スランプの原因について、相手投手のタマが良いわけではなく、自分のフォームに問題があるという捉えかたをしている。理想的なフォームに戻ることができてはじめて、スランプから脱出できるという。

ボッキ不全や、EDに悩んでいる中高年の話を丁寧に聞いていくと、オナニーのときにはボッキするが、いざセックスとなると萎えてしまう。そんな話が多いように思う。
自分がボッキしないのは、相手の女性に魅力がない、または昔は魅力があったが、それが現在は顕著に減退している。そんなふうに考えてしまう男性も少なくない。
一方で、相手の女性は、男性がそんなふうに思っていることを知っていて、自分に魅力がないのかと悩んでしまうこともあるかもしれない。
結果、お互いの関係性が壊れてしまい、これまでセックスに挑む姿勢だけはあったのだが、今後セックスレスに陥ってしまうことになりかねない。
男性が相手の女性にオナニーの現場を見られて、関係がより悪化することもあるだろう。
ここで落合博満氏の話を思い出して欲しい。ボッキ不全はスランプの状態だ。スランプを克服するために、落合氏は暗闇でバットを素振りした。
冗談だろうと思うかもしれないが、ここで私が提案するのは、自身のバットを暗闇で素振りすること。自身のバットとはもちろんチンチンのことで、素振りとは、シコシコする行為のことだ。
やや強引だが、私はボッキ不全やEDを、理想的なオナニーが出来ていないがために引き起こる問題だと思っている。
具体的なオナニーの進行具合を考えてみよう。
チンチンがムクムクと大きくなる助走段階を経てフルボッキ。そのまま射精というのは稀で、ボッキ状態を引き延ばしたほうが、最終的な快感は大きい。
だから、私などは、ついダラダラとチンチンを握ってしまうのだが、途中、何度か萎えるときがある。しかし、萎えたチンチンが突然またボッキをはじめる。そんな状況に遭遇した男性は少なくないだろう。
突然ボッキがはじまるタイミングは自分でもわからない。
私も落合氏の話を知るまで、再度ボッキするタイミングに理由はないと思っていた。しかしそれは間違いで、いまでは、理想的なオナニーフォームができたとき、ふたたびのボッキが実現されると思っている。
〝暗闇〟でのシコシコ効果とは? ~ちなみに私は全裸でシコシコ~

宮本武蔵の話と落合博満氏の話に共通して登場するのが〝暗闇〟だ。
ボッキ不全やEDに悩む中高年の方々、または将来的にボッキ不全に直面すると思っている予備軍の方々、騙されたと思って暗闇でのシコシコを実行して欲しい。
ただし、ここでいう〝シコシコ〟は、あくまでも〝素振り〟なので、射精するためのシコシコではない。
自分のオナニーフォームを思い出すためのシコシコだ。私も最近までは、オナニーにフォームがあろうとは夢にも思っていなかった。
しかし、自身が〝暗闇シコシコ〟を実現してみて、理想的なオナニーフォームがあることが、おぼろげながらだが、はじめてわかった。
とはいっても、バッティングフォームが個々人によって違っているように、理想的なオナニーフォームは各人で異なっている。
オナニーフォームという自覚がなかった私などは、理想的なフォームを取り戻すというよりも、理想的なフォームを知ることからのスタートだった。
現在、私はボッキ不全に悩んでいるわけでもEDに直面しているわけでもない。パートナーがいないからだ。ひとりでシコシコすることの目的がないわけだが、それでも、シコシコすることに何のためらいもない。
理想的なフォームができていれば、どんなタマが来てもヒットにできると思うし、調子がいいときはホームランも打てるだろう。
そんな期待と、やってみて意外と心地いいために、シコシコをやめられないでいる。

夜中でも明るい現代社会、暗闇をさがすのはかなり難しいとはいえ、夜、照明を消した部屋のなかだとそれなりに暗くなるはずだ。
そのとき、できれば全裸が理想だが、シコシコしてみるといいだろう。いつも右手で握っていたが、じつは左手のほうがスムースに動くとか、いつもヒザだちでシコシコしていたが、立った状態のほうがボッキするとか、新たな発見がきっとあるはず。
思えば、オナニーは随分とどん臭い行為だ。令和風の表現をすると、「コスパ、タイパが悪い」。とくに私のようにダラダラとチンチンをいじくりながらボッキを待つオナニーだと、なおさらだと思う。
もっというと、暗闇でおこなう〝シコシコ〟行為など、どういう意味があるのか途中で考えこんでしまうかもしれない。
チンチンが何センチまで大きくなれば終了とか、ガマン汁が垂れてくれば終了とか、明確な着地点がないからなおさらだ。
ちなみに、最近の私が暗闇でシコシコするときは、暗闇のなか全裸で仰向けになり目を閉じてシコシコすることが多い。
ボッキしたチンチンは天井を向いている。ときに右手、ときに左手でシコシコしながら、たとえば、自転車のヘルメット義務化や、数年前に入院したことなど、ケベとはまったく関係がないことを思い浮かべることもしばしばだ。
チンチンが天井を向いてボッキしているので、セックスの体位であえてたとえると騎乗位になる。そのため、上空から女性が降ってくる映像を思い浮かべることもあるのだが、騎乗位で自分のうえに乗っかる女性を思い浮かべようとしているのではなくて、シコシコの途中でなんとなく絵が浮かぶ。
そのとき、理想的なオナニーフォームが実現できているのだろうと思ったりもする。
以上、わかりにくい話だったかもしれない。しかし、この手の話は、頭でいろいろと考えてしまわずに実践あるのみと結論付けたい。
たしかに、効果は未知数で個人差もある。
しかし、たとえばボッキ不全に悩んでいる男性が、パートナーとの会話のなかで、今回の、理想的なオナニーフォームの話題を出したとしよう。
たちどころにボッキ不全が解消されるわけではないが、パートナーとの心的距離が近くなり、ボッキ不全解消に一歩近づくことになるといってもいいのではないだろうか。